東京オリンピックへの選考レースとなるMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)がまもなく開催される。群雄割拠の展開が予想されるなか、有力候補の一人と目されているのが井上大仁選手だ。2018年の東京マラソンで2時間6分54秒のタイムで、総合5位、日本人2位でゴールし、MGCの出場権を獲得。その後もアジア競技大会男子マラソンで金メダルを獲得するなど、好走を続けている。

学生時代の悔しい思い出を糧に、速い人たちの背中を追い続けてきた

井上大仁選手
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今でこそ日本を代表するランナーである井上選手だが、意外にも子どもの頃は運動神経が良くなかった。

「今も球技は苦手ですし、子どもの頃は、寒いし、走らなきゃいけないし、学校の持久走大会ですら嫌いでした」

転機となったのは中学1年生の時。奇しくも「運動が苦手」だったからこそ、走ることを選んだ。

「通っていた中学は部活に入らないといけなかったんですが、本当にできるスポーツがなくて、悩んでいたんです。そんなときに親に『陸上ならば何かしらできるんじゃない?』と言われて、とりあえずのつもりで陸上部に入部したのがきっかけでした」

入部当初は目立った成績もなく、県大会へ出場することもなかった。地域のロードレースで少し走る程度だったものの走り続けているうちに、少しずつ苦手意識に変化が現れた。

「少しずつ記録が伸びて、順位も伸びてきて、注目をされたり、褒められたりすることで、ちょっとずつ楽しくなってきたんです。次はどれぐらいで走れるのかな、これぐらいで走りたいなと考えているうちに、気づいたら走ることにはまっていました」

中学2年生となり、進路を決断することになった井上選手は、走ることを頑張ってみようと決意。地元・長崎にある陸上の強豪校、鎮西学院高等学校を経て、山梨学院大学へと進学し、チームの主力として活躍するまでに成長した。

「記録が出なくて苦しんだ時期というのはそんなに長くはありませんでした。それよりも試合で負けたことや、高校でインターハイに出られなかったこと、駅伝の全国大会に出られなかったことのほうが悔しい思い出として残っていて、それが“同じ思いはしたくない”という、頑張るための糧になっていたんです。もともと速くもなかった僕は、ずっと挑戦する立場で、自分よりも速い人たちの背中を追いかけ続けてきました。それを続けるだけというのは、昔も今も同じ気持ちです」

良かったことは継続する、悪かったことは焦らず過程も含めて振り返れば良い

井上大仁選手
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競技を続けていれば、良い時も悪い時も必ずあるもの。その時々で一喜一憂することなく、冷静に走り続けることで、井上選手は世界と戦える力をつけていった。

「たまたま良かったというレースもありましたが、突然成績が良くなったということはありません。どちらかというと気づいたらタイムが出るようになったという感じです。何かしらの競技でオリンピックや世界選手権に出たいという目標はざっくりと持っていて、その中でマラソンというチャンスが来たので、世界を目指す走りをしたいと自然と思えるようになりました。試合では成績が良ければ、良かったことを継続する。でもその中で課題やダメだったこと、できなかったことが多少なりともあります。そこを見つけて、改善していくというのが大切。そして成績が悪かった時は試合の結果だけではなくて、そこに至るまでの過程も含めて、ひとつひとつ考えるようにしています。自分が目指す大会に向けた練習の一環として出たレースで結果が悪いのであれば納得はしますが、納得ができない走りや、タイムが悪過ぎれば、取り組み方を1から見直して、集中しなおすというのは大事なことですね」

昨年の東京マラソンから1年半、マラソンにおいてもトラックにおいても、コンスタントに成績を残してきた井上選手。だが、今年6月に行われた日本選手権では納得のいく走りができなかった。

「今までしっかりと記録を残せてきた要因はなんだったんだろうなと今ちょうど考えているところです。調整力や流れもあるのですが、ちょっと気を張りすぎていたのかなという気はしています。今回は今まで通りの自然体な感じで臨むことができていなかったと思っています。まわりに流されず、自分の芯を持って走ることは、競技においてすごく大事なことだと改めて実感しました」

行き詰まったら「自分らしさとはなにか」を問い続ける

井上大仁選手

陸上関係者に井上選手のことを尋ねると、真面目でストイックという評判を聞くことが多い。けれども本人は「周りが言うほど僕はストイックじゃないですよ」と笑う。

「食事を制限したり、遊びに行かなかったり、寝る時間が早いのは、翌日お腹を壊したくない、疲れたくないからという理由だけで、あまり切り詰めてやっているという意識は全くないんです。自分のペースや、マラソンに必要なものを選択して、そこに没頭するというのは大切にしていますが、割と一人で色々とやることが得意なだけだと思うんです。今は競技をしているので、走りに影響が出そうな時は、ご飯の誘いを受けても、ここまでは行きますけど、ここからは無理ですというのはきちんと言います。社会人になると飲みに行く機会は増えますし、誘ってもらっているのに悪いなと感じることもあります。でも、結果を出すことが今の僕にとっては一番大事。だからちょくちょく断ります。結局自分の中に不安要素を持ちたくないんです。そこ聞くか?ってところを聞くこともありますし、多数派の意見があっても自分が嫌だと思えば聞かない。いい意味で空気を読まないところは自分らしさだと思っていますね」

ときには迷うこともあるかもしれない。そんな時は「自分らしさとは何か」と考える。それはこれから世界を目指す学生たちにも、覚えておいてほしいと井上選手は語る。

「最近は特にいろいろなものがすぐに手に入る世の中で、何を求めたらいいのかわからなくなる時もあります。だけどやっぱり自分の気持ち、やりたいことというのをしっかりその都度、その都度考えて、行き詰まったら原点に帰る。僕の原点は楽しむことです。純粋に記録や勝負を楽しんで、どんどん上を目指していく。何かがあった時はそこに立ち返るようにしています。だから若い選手たちにも何より楽しんで頑張って欲しいですね」

練習メニューについても、昔ほど詰め込まなくなったという井上選手。それもすべて走る中から学んでいったことだ。

「いろいろな大会の結果やそれまでの過程を見たり、メンタル的な部分を考えたりした結果、“走らなきゃいけない”と駆り立てられるときって、自分の中に余裕がないときだということに気づいたんです。そうなった時は逆に少し休んだり、練習量を落としたりするようにしています」

シューズの見た目が、走りに影響することもある

井上大仁選手
トラックやロードの短い練習では「SORTIEMAGIC RP 4」を愛用。トラックにおいてもスパイクを履かないのが井上選手のスタイル。

そんな井上選手にレースシューズに求めるものを聞くと、「見た目です」という意外な答えが返ってきた。

「履き心地はもちろん大切です。でも見たときのイメージが履き心地に繋がってくると思うんです。例えば見た目が重そうだなと思うと、自分の中に先入観ができてしまって、いい靴でも10あるうちの6や7の感触しか伝わってこない。逆にこれ走りやすそう、履きやすそうと思ったら、多少ずれていてもそのうちに走りやすくなるんです」

見た目が一番と言いつつも、フィーリングにも細かなこだわりがあり、それは学生の頃から愛用しているアシックスにその都度フィードバックされている。特にMGCに向けての今、ねじれの剛性をあげてほしい、反発性はそのままに衝撃吸収性をあげてほしいなど、井上選手のリクエストはより細かな部分へと落とし込まれている。

「長い距離を走って、足の負担などを考えながら、少しずつフィードバックをします。僕の理想は地面との感覚をしっかり噛み合わせられるような、感覚をじかに無駄なく感じられるシューズ。もちろんグリップや耐久性、クッション性は高いレベルで求めていますけれど、自分の感覚にマッチするというのはすごく気にしています」

井上選手はトラックにおいてもスパイクを履かないのが彼のスタイル。トラックやロードの短い練習では反発とグリップ性があるソーティマジックRP 4を愛用している。

「スピードを殺さずに走れるので、スピード練習にはこのシューズを履いています」

MGCは目前。その先には東京オリンピックが待っている。

「まずはしっかり戦い抜ける体を作ることが課題。日によって調子は変わりますし、当日どうなるのかは全く分からないので、そこは過信せずに準備をし、優勝してオリンピックの切符を掴みたいと思っています」

2019年9月15日、井上選手がどんな走りを見せてくれるのか。楽しみにしたい。

井上大仁選手

井上大仁
1993年生まれ。長崎県出身。鎮西学院高校、山梨学院大学を卒業。現在三菱日立パワーシステムズマラソン部所属。東京マラソン2017で自己ベストを更新し日本人1位となり、世界陸上ロンドン大会日本代表に選出。2018年アジア競技大会で日本男子マラソン32年ぶりとなる金メダルを獲得。自己ベスト2時間6分54秒は日本歴代5位。

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Photo:Ikunori Moriwaki
TEXT:Junko Hayashida(MO'O)