「最強市民ランナー」として、日本マラソン界の数々の常識を覆してきた川内優輝選手。公務員として勤務をしながら記録を打ち立ててきた姿は、多くの市民ランナーの夢であり、刺激を与えてくれる存在でもある。そんな彼が今年4月、またひとつ常識を打ち破った。市民ランナーからプロランナーへ。そこにたどり着くために積んできたトレーニング法もまた型破りなことで知られている。川内優輝選手の強さの秘密に迫った。

日常生活の時間の一部をランニングに充てれば、意外と練習時間は確保できる

川内選手の練習の基本となるのは、週5日のジョグ。定時制高校に勤めていた頃は、12時45分から21時15分の勤務時間に合わせ、練習は午前中の1回のみ。だが限られた時間では、ジョグの目安としていた20kmに到達しない日も多かった。そんなときに取り入れていた練習法のひとつが通勤ランだという。

「以前いた部署では、自宅から職場まで18kmぐらいだったんです。電車だと30分、走れば約3倍の1.5時間。ちょうど良いトレーニングになるので、行き帰りのどちらかを走るようにしていました。1日は24時間と限られていますから、絶対にかかってしまう日常生活の時間の一部をランニングに充てれば、意外と練習はできるものです」

ポイント練習は週に2日。水曜日または木曜日はスピード練習となるインターバル走の日。3分ペースで1,000m×10本や、400m×25本などを行う。土曜日は距離走の日。1km3分30~35秒ペースで20~40kmを走る。

「スピード走は狙うレースの1週間前に1,000mを10本入れるのがルーティンになっています。土曜日の距離走は、水を準備したりしないといけないし、一人で追い込むのもしんどいですよね。そこで、距離走の代わりにハーフマラソンやフルマラソンに出場すれば良いと思いついたのが、多くのレースに出るようになったきっかけです。ありがたいことに日本全国からレースに呼んでいただいて、私も良い練習ができるようになりました」

練習の一環としてレースを走る。以前は馴染みのなかったこの方法も、川内選手の活躍とともに一部取り入れる選手や市民ランナーもいるほどに定着している。とはいえ、年間40前後もレースに出場するというのは驚異的だ。

「そのなかでも狙っているレースというのは当然あって。練習スケジュールはそこから逆算して計画をしています。まず、私の場合は短くて半年、長くて3年先まで、大まかな計画を立てます。公務員時代は異動の可能性があり、配属が変わると勤務形態も変わってしまう。そこで年度が変わり、異動の有無が分かったところで、1年のスケジュールを立てていました」

トレーニングは、少し重量感のあるシューズで足を鍛える

ハードに走り込むと、どうしても心配になるのが怪我のリスク。川内選手も高校時代は怪我に悩まされていた。

「レースでは普段よりも念入りにウオーミングアップやストレッチ、クールダウンをするので、強度の高い練習をするときよりも怪我をしにくいのかなと個人的には思っています。また普段の練習も大まかな計画は作っていますが、それにこだわりすぎず、足の状態や疲労度に応じて、柔軟に変えるように気をつけています」

そして、怪我のリスクを抑える川内選手が重視しているのがシューズ。練習用として5年ほど前から愛用しているのが、アシックスのGEL-KAYANOシリーズだ。

「元々はGT-2000 NEW YORKシリーズをよく履いていたんですが、NYCマラソンに出場するときに、モデル名にニューヨークとついているぐらいだから、NYCマラソンバージョンを売っているだろうと思って、喜び勇んでエキスポに行ったらなかったんですよ(笑)。代わりにGEL-KAYANOのNYCマラソンバージョンが売っていて、デザインも格好良いし、日本では売っていないからと買ったのが始まりです。僕は練習用シューズにはクッション性と安定性を第一に求めています。練習のほとんどをジョグが占めているので、クッション性がないと足に大きな負担がかかってしまう。クッション性があるシューズにしてからは、本当に足への負担が少なくなりました」

川内選手が、トレーニング用のシューズに求めているのが重量感。走力が上がるにつれ、足さばきの良さやスピード感を求めて、シューズの軽量化を図るランナーも多いが、川内選手にとっては片足300g前後のシューズがトレーニングではベストだという。

新モデルのGEL-KAYANO 26を履いたという川内選手。「前モデルよりもさらにホールド力が良くなった気がします。足を入れた瞬間から履きこんだ靴のような包まれ方をするのがいいですね」

「重い靴を履くとキック力が必要になるんです。GT-2000シリーズが改良により段々と軽くなってしまい、物足りなさを感じていたので、GEL-KAYANOシリーズが今の僕にはベストですね。少し重量感のある靴だと普段のジョグから足が鍛えられて、レースで軽い靴を履いたときに、良い感じでスピードが出るようになるんです。1日に何度も練習できて、合宿も組める実業団選手たちと市民ランナーである私が対等に渡り合うためには、短時間でより効果的な練習を意識する必要があったんです」

夏に月1~2回ほど行っているというトレイルランニングでも、クッション性と安定性を重視したシューズを履いているという。

「週末の休みの日に、僕の好きな雲取山や大菩薩峠に合宿のような感じで行っていました。だいたい1日7時間、2日で15時間ぐらいずっと山で走っていますね。トレイルは標高2,000mを超えてくると、まるで高地トレーニングのようで、すごくストイックにトレーニングをやっている感覚が味わえます(笑)。山頂まで行けば達成感もありますし、景色も良くて、非日常感も楽しめますよ」

「GEL-KAYANOシリーズはクッション性と安定性があるので、路面からの衝撃もやわらげてくれます」(川内選手)

実はカメラを持って走るのも好きだという川内選手。山中で良い景色に出会うと、立ち止まりシャッターを切ることもあるという。ここまで純粋に走ることを楽しんでいる選手はそうはいない。

「そうなんですよね。だから他の人にお前もっと真剣にやれと言われちゃうんです(笑)。よく〝休みの日は何をしていますか?〟と聞かれるんですが、この質問の答えが実業団選手と強い市民ランナーの一番大きな差だと思うんです。実業団の人は遊びに行きますとか、飲みに行きますとか言いますよね。でも市民ランナーは〝走りに行くに決まってるじゃないですか!〟〝レースに行きます〟〝山へ走りに行きます〟ってなるんです。平日は仕事があるんだから、週末は1日楽しくランニングがしたい。それだけの話なんです」

走りたくない日は1日休む、バーベルを自作して自宅をジム化

とはいえ、市民ランナーならモチベーションが続かない、練習したくない日があると悩んだ経験が一度ならずともあるだろう。日々走り続けている川内選手には走りたくないと思うときはないのだろうか。

「もちろんありますよ! そういう時は思い切って1日休んだ方が良いと思いますね。1日休むと、次の日には罪悪感が出てきて、〝昨日走らなかったんだよなー、今日は走らなきゃ〟と気持ちが切り替わりますから。シリアスにランニングに打ち込んでいる人ほど、慢性疲労を感じているでしょうし、思い切って休みましょう。いつも走っている時間を治療やリカバリーに使うこともできるので、休むことに不安がある人は、“リカバリーする時間を充てたんだ”と思えば、少しは気持ちも楽になりますよ。でも、そう考えても、絶対に罪悪感は覚えるんですが…。ただ、これの危ないところは2日ぐらいまでなら良いんですけど、3日以上休むと、今度は“そのままやらなくて良いかな”と思ってしまうので気をつけましょう(笑)」

もうひとつランナーとして強くなるほどに、重要なファクターとなるのがフィジカルトレーニングだ。川内選手は走る時間を確保するため、創意工夫で自宅の寝室をジム化したという。

「大学を卒業して市民ランナーになったとき、何が一番困るかなと考えたら、ウエイトルームが使えないことだったんです。でもジムの営業時間に合わせた生活や、移動を考えると、その時間は走ることに充てたい。しかも月会費って結構高いので、この値段に見合うのかな…と考えてしまって。そこでホームセンターで鉄の棒を買ってきて、いらなくなったシューズをぐるぐるとガムテープで巻いて、自分でバーベルを作ったんです。製作費は5,000円、10年以上使っていますから年間500円、減価償却でここからさらに安くなります(笑)。あとは自転車屋さんからもらってきたゴムチューブもあって、こちらも筋力トレーニングに使っています。お金がなくても工夫次第で、ランに必要な筋肉はつけられる気がします」

さまざまな活動を通じてマラソンの魅力を伝えたい。それが、僕の理想とするプロランナーの姿

限られた時間の中で、いかに効率的に練習を行うか。川内選手が導き出した答えが通勤ランであり、頻繁なレースへの出場であり、シューズであり、自宅のジム化だった。そうして積み重ねてきた練習方法は、プロになってどう変化していくのか。

「大きく変わることはありません。あえて言うなら目標に届かないこともあった20kmジョグをきちんとできるようになったことですね」

6月からは初めて長期間合宿も敢行。学生時代を含めても、9泊10日までの合宿しかしたことがなかったという川内選手にとっては、これが一番大きな変化かもしれない。

「私は毎年夏の暑さにすごく苦しんで、練習があまりできずに調子が落ちてしまい、秋から徐々に戻していくパターンが多かったんです。そこで今年は涼しい北海道の釧路で2ヵ月近く合宿をすることにしました。合宿後の1ヵ月は暑熱順化をしながら調整すれば、ドーハの世界陸上でも良いレースができるのではと思っています」

練習だけでなく、レースに出る頻度もこれまでと大きくは変えないという。では、プロになって何が変わるのか。そこには、川内選手ならではのプロランナー像があった。

「今まではフルタイムの勤務があったので、イベントや講演がなかなかできなかったのですが、これからはアシックスをはじめとしたパートナーのみなさんと協力して、日本全国をまわってマラソンの魅力を伝えるマラソンキャラバンをしたいと思っています。市民ランナーはもちろん、地域の子どもやお年寄りの方にも夢を与えられるような活動をするつもりです。現役選手だからこそ伝えられるメッセージがたくさんあると思うんです」

以前から、川内選手はファン対応の良さで知られていた。大会終了後には、レースの疲れも感じさせず、ファンとの写真撮影やサインに応じ、ときに長蛇の列ができても、最後まで丁寧に対応する。

「大会に行くと〝いつも応援してるよ!〟と言っていただいたり、本当にたくさんの方がメッセージをくれるんです。私たちは応援してくださる方がいるから、日本代表として、競技者としてやっていけるところがある。そういう方たちに何ができるかと考えたら、自分が経験したことを発信していくことだと思うんです。地方にも素敵な大会はいっぱいあって、そういう魅力も伝えていきたいので、SNSも始めました。今までは伝えたいことはいっぱいあっても、公務員として発信できない部分も多かったのでようやく解禁です。これからはさまざまな活動を通じてマラソンの魅力を伝えていきたい。それが僕が理想とするプロランナーの姿です」

唯一無二のスタイルで私たちを楽しませてきてくれた川内選手が、レースで、プロランナーとして、これからどのような姿を見せてくれるのかが楽しみだ。

川内 優輝

川内 優輝
1987年生まれ。あいおいニッセイ同和損害保険所属。小学1年生の時に陸上を始め、大学まで陸上競技部に所属。箱根駅伝にも関東学連選抜(現.関東学生連合)6区として2度出場。大学卒業直前の2009年別府大分で初マラソンを経験。同年春から埼玉県庁に入庁し、以来、フルタイム勤務の市民ランナーとして競技を続け、招待選手やゲストランナーとして200回以上(一般参加なども含めると540回以上)のレースに出場。2019年4月にプロランナーに転向。
Twitter
&Facebook: @kawauchi2019
HP: https://www.yuki-kawauchi-marathon.com/

Photo:Tetsuya Fujimaki

TEXT:Junko Hayashida(MO'O)