アシックスにおける「進化の原動力」というべきアシックススポーツ工学研究所(ISS)。彼らの視線は、常に「スポーツをするさまざまな人たち」に向けられているが、ことトップアスリートをターゲットにした研究開発では、コンティニアス(継続的)なイノベーションと、ディスラプティブ(先進的/破壊的)なイノベーションという「2つのイノベーション」の双方が、高いレベルで要求されることは想像に難くない。

 

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ここに紹介する研究者・石川達也(スポーツ工学研究所 フットウエア機能研究部 フットウエア機能開発チーム)と、デザイナー・北爪健一(グローバルライフスタイル統括部 ビジネスインテリジェンスチーム)は、数年にわたって、スプリンターのためのディスラプティブなギアの開発に携わってきた人物だ。彼らが生み出したのは「HL-0 スプリントスーツ」。いったい、どのような機能の発現をもたらすテクノロジーなのだろうか?

2つの高機能素材が「速さ」を生み出す!?

——まずは、HL-0 スプリントスーツの概要を教えてください。

 

石川 HL-0 スプリントスーツは、単なるウエアではなく、「勝負の場面で身につけてもらえるギアを作りたい」という思いから生まれたものです。開発にあたっては、ただひたすら「速く走ること」だけを追求しました。

 

北爪 プロジェクトが立ち上がったのは2013年6月です。さまざまに思案を重ねた結果、素材と構造という2つの側面からアプローチをすることになり、最終的に、「2種類の高機能素材を活用することで、走行中のエネルギーロスを小さくする」というソリューションに至りました。

 

石川 2種類の高機能素材というのは、高伸縮性素材と高剛性素材のことで、どちらも東レと共同開発し、特許も出願しています。今回開発した高伸縮性素材は、当社の従来素材に比べて約80%ほど軽いうえに、約80%の力で伸ばすことができるため、よりスムーズなからだの動きを可能にします。一方、高剛性素材というのはゴムのような特性をもつ素材で、エネルギーロス、具体的に言うと「ヒステリシスロス」が少ないという性質をもっています。

石川達也

石川達也 | Tatsuya Ishikawa

1986年兵庫県生まれ。スポーツ工学研究所 フットウエア機能研究部 フットウエア機能開発チーム。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了。好きなスポーツはテニス。

 

——ヒステリシスロスというのは、いったいなんでしょうか?

 

石川 物質というのは、引っ張ったときと縮むときで、力の大きさが異なるという特性を持っています。戻る力が熱エネルギーに変換されるので、引っ張った分だけ力が戻ってくるわけではない、ということです。簡単に言ってしまうと、このエネルギーロスのことをヒステリシスロスといいます。陸上競技は、1/100秒を争う競技です。であれば、「まずは生地自体のロスをできる限りなくそう」、「それによって放出エネルギーを大きくしよう」という発想に、今回至ったんです。生地の中でも、弾性材料はとりわけエネルギーロスが小さいので、ゴムのような特性を持つ高剛性素材を東レと共同で開発し、結果として、ヒステリシスロスが従来の素材の半分という機能性に達しました。

 

——高伸縮性素材は、どのような役割を果たすのでしょうか?

 

北爪 人間の運動動作を見ると、高剛性素材の特性が必要な部位ばかりではないことがわかります。たとえば股関節のように、からだの動きに追従する生地が必要な部位もあるわけです。さらに言うと、高剛性素材だけだとどうしても着心地が悪いんです。それじゃなくてもスプリンターは感覚が鋭敏なので、着心地にはとことんこだわる必要がありました。もうひとつ、高剛性素材だけでスプリントスーツを作ると、重くなってしまうというデメリットもありました。そうした点を解決するためには、新たな高伸縮性素材の開発が不可欠だったんです。結果として、東レも「これ以上は作れない」というところまで突き詰めた生地を生み出すことができました。

北爪健一

北爪健一 | Kenichi Kitazume

1979年岩手県生まれ。グローバルライフスタイル統括部 ビジネスインテリジェンスチーム。米国のFashion Institute of Technology卒業後、米国にてスポーツファッションのデザイン職に従事した後、アシックスに入社。グローバルアパレルデザインフューチャーチームを経て現職。好きなスポーツはランニングと相撲。

慣性力をスピードにつなげるテクノロジー

——HL-0スプリントスーツは、具体的にどのような効果を発現するのでしょうか?

 

石川 そもそもこのHL-0スプリントスーツは、フランスのスプリンター、クリストフ・ルメートル選手をターゲットに開発されたという経緯があります。ルメートル選手は、コーカソイドでははじめて100mを9秒台で走った選手で、リオデジャネイロ2016オリンピックでは200m走で銅メダルを獲得しました。

ルメートル選手は、最高スピードに到達してからゴールまでのスピード持続能力は、世界でも最高ランクという評価がある一方で、スタートダッシュは苦手という特徴を持つスプリンターです。そこで、スタート時の効果的な加速、中盤でのトップスピードの向上と維持、終盤でのスピード逓減の抑制、という主に3つの効果を発現しやすいスプリントスーツを作ることが最終目標となりました。

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まず、スタート時に高剛性素材が力を発揮します。クラウチングスタートの姿勢を取ったとき、ウエアの背中の部分(下腰部)に用いられた高剛性素材は、しっかりと伸びた状態になります。そうして蓄えられたエネルギーが、号砲が鳴りパッと起きあがる動作をアシストしてくれるわけです。

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次に、加速が頂点に達する中盤では、「脚流れ」をいかにして抑制するかが課題となります。脚流れとは、<1>片脚を踏み出す(たとえば右脚)→<2>慣性力でからだは前に進む→<3>踏み出した右脚は、からだ(股関節)より後ろの位置で地面から離れる→<4>右脚は再びからだ(股関節)より前に運ばれる……というループで走っているときの、<3>の状態です。当然、前に向かって走っているわけですから、後ろへ向かうエネルギーはロスにほかならないわけです。そこで、<2>の時点で伸びた(蓄えられた)股関節の前側に配置した高剛性生地のエネルギーを、<3>の時点で解放させることで、脚を前へと運ぶ動作をアシストしようと考えました。

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最後にゴール前では、スピードの逓減をいかに抑えられるかが鍵になります。そこでソックスのふくらはぎ(足関節部)に高剛性素材をあてがい、エネルギーの蓄積と解放を生み出しました。スプリンターはつまさきから着地するわけですが、慣性力でからだが前に進み、脚流れの状態から地面を蹴り上げる一連のプロセスの中で、アキレス腱は伸びている状態から縮んでいる状態になります。その動きを、高剛性生地でアシストするわけです。この力は同時に、かかとの落ち込みを抑制することになるので、前へと向かう動きの妨げになるひとつの要因を、抑える役割も果たします。

 

北爪 この3つの効果のうち、スタート時は自身の力で能動的に下腰部を伸ばしているわけですが、あとの2つは慣性力や重力による動き、つまりは受動的にエネルギーを蓄積し、前へと進む力をアシストしているわけです。運動エネルギーのロスを抑えつつ、プラスのエネルギーに変えるという役割を、スプリントスーツが果たしているわけです。

 

石川 今回の開発のポイントは、まさに「自分で動かしているのか、ほかの力で動かされているのか」という点でした。動作分析の検証を重ね、自分の筋肉で動かしていない、つまりは慣性力や重力による動きを活用して生地を伸ばすことができれば、余計な筋肉の動きを使わずにエネルギーを蓄積できるし、動きにくさにもつながらない、という結論に達しました。ISSに蓄積されていた先行研究のデータを洗い出し、そこから仮説を立てて検証した結果、先程の3つの機能に絞り込まれていったんです。その意味でいうと、「能動的と受動的」という観点は、今回のプロジェクトにおいて大きなステップをもたらすことになりました。

研究者とデザイナーの共同作業が成功をもたらした

——理論をかたちへと落とし込むにあたって、難しかった部分はありますか?

 

北爪 3種類の機能をきちんと発現させるためには、2つの生地が、からだの動きに追従して思ったように動いてくれなければなりません。そこで、ルメートル選手の体型の測定や動作分析を徹底しておこない、パタンナーや3Dモデラーと何度もやりとりをし、2つの生地の特性が、正しく発揮される設計にまでチューニングをしました。今回開発した2つの生地も、ほかの一般的な生地と同様、タテに伸ばすのとヨコに伸ばすのとでは特性が異なります。適切な方向に適切な分だけ伸びてもらうために、どの部位にどのような方向で生地を使うかということは、これ以上ないくらい緻密に検証を重ねました。

 

石川 研究者とデザイナーが、プロジェクトの立ち上げから共同作業をするというケースは、アパレルではこれまでありませんでした。ただ、アパレルの場合はとりわけデザインとは切り離せないので、今回はコンセプトを決めるところから、北爪さんとやりたかったんです。もし最初から一緒にやっていなかったら、リオデジャネイロ2016オリンピックにはとても間に合わなかったと思います。

 

ルメートル選手は、リオデジャネイロ2016オリンピックの200m走で銅メダルを獲得するわけですが、4位との差は、わずか3/1000秒だったんです。僕らのスプリントスーツでメダルを取ったなんて思っていませんが、お手伝いくらいはできたのではないかと。

 

「ただひたすら速く走る」ことだけを目指して、苦労に苦労を重ねて、ディスラプティブなイノベーションを起こせた喜びは計り知れませんが、気がつけば2020年が目の前に迫ってきています。次の破壊的イノベーションに向かって頭をリセットしなければいけないと思います。

HL-0 スプリントスーツ

HL-0 スプリントスーツは、リオデジャネイロ2016オリンピックにおいて、アシックスが当時契約していたうち、6カ国(日本、フランス、イタリア、オランダ、フィンランド、韓国)のスプリンターたちに提供された。

※アシックスは、東京2020オリンピック ゴールドパートナー(スポーツ用品)です。

 

Text by Tomonari Cotani Photo : Koutarou Washizaki

Movie :
Director / Animation:荒牧 康治
Illustrator:Macciu
Assistant Designer:塚川 功祐
Sound Design:PARKGOLF
Sound Efect:杉本佳一
Sound Produce:瀧澤真之介(SPLUCK)
Produced by Moph inc.

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