アシックススポーツ工学研究所

アシックスの創業者である鬼塚喜八郎が、夕飯に出たタコの酢の物を見て「吸盤型のバスケットボールシューズ」のアイデアを思いついたのは、創業から2年後の1951年のこと。一見、黎明期らしいユーモラスな小話だが、商品開発のブレイクスルーが、(研究者にとって不可欠な資質である)「直観」や「観察」によってもたらされたという意味では、その後のアシックスのもの作りの本質が見え隠れするエピソードだと言えるだろう。


なぜならアシックスは、その歩みにおいて常に「人間の運動動作」に着目し、それを分析することから商品開発をスタートしてきたからだ。鬼塚のエピソードに戻るなら、バスケットボールというスポーツの特性上、シューズには高いグリップ性が求められ、シューズによっていかにパフォーマンスをエンハンスさせるかに日々思いを巡らせていたからこそ、「吸盤」というソリューションに至ったに違いない。


今日、そうした商品開発の根幹を担っているのが、1985年に設立されたアシックススポーツ工学研究所(ISS)である(ちなみに1985年というと、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が劇場公開され、「スーパーマリオブラザーズ」が発売となり、電電公社と日本専売公社が民営化してNTTとJTに変わった年でもある)。


ISSのミッションを端的に言うならば、「創業時から変わることのない『人間の運動動作への着目と分析』に加え、『独自に開発した材料や構造設計技術』を用いることで、スポーツをするあらゆる人の可能性を最大限に引き出すイノベーティブな技術や製品やサービスを、継続的に生み出すこと」、とまとめることができるだろう。

そんなISSがこれから何を目指すのかを知るべく、所長の西脇剛史の元を訪ねた。


5つの研究分野を社内に持つメリット

——最初に、ISSがどのような研究を行っているのか教えてください。


西脇 私たちが主に行っているのは、人間特性に関する研究、材料に関する研究、構造に関する研究、分析・評価試験に関する研究、生産技術に関する研究になります。この5つの分野を社内で行えることが、まさにアシックスの強みだと言えるでしょう。

まず人間特性に関する研究ですが、私たちは、トップアスリートから市民ランナーまで、あるいはテニスやバレーボールや野球やラグビーなど、さまざまなスポーツの動作にまつわる膨大なデータを有しています。蓄積されたデータを科学的に分析することで、必要な機能を理論化し、商品開発へとつなげています。こうした姿勢を言いあらわしているのが、ISSのフィロソフィーでもある「Human centric science」というキーワードです。

また、とりわけシューズの開発に関しては、マテリアル(材料)のデザイニングとストラクチャー(構造)のデザイニングを社内で行える強みは計り知れません。「特定のアスリートのための特別なスパイク」の開発も、私たちは力を入れてやっていますが、最適化という点に関していうならば、使う人や用途が決まっている方が答えを見つけやすいんです。むしろ、誰が履くかわからない一般向けのシューズを最適化する方が、よっぽど難しい。例えば足サイズは27㎝だけれど、体重は60㎏かもしれないし100㎏かもしれない。そのように用途のレンジが極めて広いシューズを「最適化」するためには、マテリアルとストラクチャーの研究開発、言い換えるとトライ&エラーを迅速かつ何度も繰り返せることが、とても優位に働くのです。

短期的に見ればアウトソーシングした方が効率的なのかもしれませんが、貯まっていくデータやノウハウのことを考えても、社内で研究開発できることは大いなる強みだと考えます。

そして、マテリアルやストラクチャーの研究開発が理に適っているか、あるいはその機能を十分に発現できる生産方法が確立されているか、という点を厳格化していくためにも、分析・評価試験に関する研究と、生産技術に関する研究は欠かせません。この2つの分野についても、他部署との連携やスピード感という意味において、社内にあることは大きなメリットとなっています。

西脇剛史

西脇剛史 | Tsuyoshi Nishiwaki

スポーツ工学研究所所長。1986年大阪大学理学部高分子学科卒業後、株式会社アシックス入社。スポーツ工学研究所に配属され現在に至る。工学博士(1996年)。日本機械学会ベストテクニカルプレゼンテーション賞(2004、2005)、日本繊維機械学会 技術賞受賞(2013、2016)。主な著書に『足と靴の科学』(日刊工業新聞社)


——「シューズの最適化」に関して、定量的な指標はあるのでしょうか?


西脇 履きやすいシューズの条件として、私たちは以下の8つの機能が重要だと考えています。

1:足への衝撃をやわらげる「クッション性」

2:ぐらつきや関節の過度な動きを抑制する「安定性」

3:滑りを抑える「グリップ性」

4:足の動きに合わせてシューズが曲がり、スムーズな動作をサポートする「屈曲性」

5:足を包み込む「フィット性」

6:長く履き続けられる「耐久性」

7:シューズ内の温度・湿度の制御により足のムレを抑える「通気性」

8:シューズ自体の「軽量性」

この8つの機能をシューズごとに高いレベルで発現させるためのガイドラインとして、インパクト・ガイダンス・システム(IGS)という社内指標を設けています。実はこの8つの機能って、すべて相反するんです。軽量性を追求すれば、耐久性やクッション性が悪くなる。クッション性を上げすぎると、今度は安定性が悪くなる……といった具合にすべてがコンフリクティングなんです。

この相反する機能を同時に満足させようと思ったら、ハイブリッドデザインしかありません。つまり、特性の違うパーツや材料を組み合わせていくのです。例えばストラクチュアルデザインにおいて、ミッドソールとアウターソールが分かれているのはその典型例です。また、軽量だけれど耐久性に少し自信がない材料があったとしても、そこは応力集中が起きない構造設計を施すことで、共存させることができます。こうした研究体制から生まれた成果のひとつが、非常に軽量でありながらクッション性にも優れたミッドソールである、「FlyteFoam」です。

いずれにせよ、この8つの機能を機械試験で測るのではなく、被験者の方にシューズを履いていただき、すねに付けた加速度計でクッション性を計ったり、走行時の関節の動きの大小で安定性を評価したり、足の表面に発生するひずみを検知することでフィット性を評価したりと、「着用した人の応答を元に評価方法を考えていこう」というのがIGSの基本であり、その背景にあるのが、Human centric scienceという考え方なんです。


スポーツ工学研究所

ISSが指向する2つのイノベーション

——今後ISSは、どのようなイノベーションを見据えているのでしょうか?


西脇 ISSでは、2つのイノベーションを標榜しています。ひとつはコンティニアス(継続的)なイノベーションで、例えば「GEL-KAYANO」のような定番商品を、毎年確実に性能アップさせていくことを目指しています。もうひとつはディスラプティブ(革新的/破壊的)なイノベーションで、これは2〜3年に一度ドカンと出せる、例えば「FlyteFoam」のような機能素材の開発をイメージしています。

この2つのイノベーションを確実に行っていくためには、外部との連携も鍵になってくると考えています。実際、私たちは企業や大学と共同開発・共同研究を行っています。企業で言うと、例えば東レや川崎重工と共同で素材の開発をしているのですが、当然、ビジネス的な意味合いが絡んできますので、彼らとはコンティニアスなイノベーションでご一緒するのがいいと考えています。

一方、ディスラプティブなイノベーションにおいては、大学と組むべきだというのが、個人的な考えです。例えば、オーストラリアのメルボルン大学と組んで、糖尿病患者さんのためのシューズを研究したり、シンガポールの南洋工科大学と共同で、靴底の摩耗についての研究を進めています。

企業にせよ大学にせよ、お互いがウィンウィンの関係になることが大切だと思います。

スポーツ工学研究所

——ディスラプティブなイノベーションを起こすために、いま西脇所長が注目している研究領域やテーマを挙げるとすると?


西脇 ウェアラブルとビッグデータです。昨今は、とりわけウェアラブルという言葉がひとり歩きしていると思います。例えば心拍数をモニタリングしたとして、その日の平均値を提示したとしても、「その結果を受けて、じゃあ次にどうすればいいの?」というところで、止まっているのではないかと思います。

トップアスリートの場合は専属のコーチがいますから、値を見ていろいろなアドバイスをしてもらえると思うのですが、多くのコンシューマーには専属のコーチがいませんよね。ですから、何かしらを計測したその次のアクション、言うなればコンシューマーベネフィットを提示していく必要があると思うのですが、実は、そうたやすいことではないんです。私たちには、MY ASICSというトレーニングプログラムがあり、多くのデータを実際に管理させていただいています。このデータをうまく活用することで、個人個人のパフォーマンスをエンハンスしたり、適切なトレーニング方法を提供できるのではないかと思っています。そこまでのコンシューマーベネフィットがパッケージングされて初めて、ウェアラブルテクノロジーが市民権を得ていくのではないかと思っています。あくまで、個人的な意見ですが。


——折しも今世界では、ウェルネス指向が強まっているというか、いかにして健康寿命を伸ばすか、という意識が高まりつつありますね。


西脇 仰る通りで、健康寿命を伸ばすには、体力が落ち始める少し前から、運動する習慣をつけることが効果的なんです。だとすると、いろいろな設計が考えられると思います。例えば、長時間履ける、いわゆるコンフォートなウォーキングシューズを作ることだったり、逆に、時間がない人向けに、3分歩いただけで30分のウォーキング効果を出せるような、歩きにくいシューズを作るとか。そうした新しいウェルネスの方法を提示していくことも、ISSの重要なミッションだと考えています。

スポーツ用品を設計していて興味深いのは、「高いスキルの人を対象にした商品ほど、求められる機能が多いわけではない」ということなんです。スキルの高い人は、トレーニングも十分積んでいるので、パフォーマンスのエンハンスメントを第一義に考えればいいと思うんです。しかしまだスキルが十分でない人は、パフォーマンスの向上も考えなければなりませんが、同時に、怪我の防止も大いに考えなければなりません。

まもなく2020年がやって来ますが、そこは、あくまでもマイルストーンなんです。それも、滅多に経験することができないマイルストーンです。2025年や2030年を見据えたウェルネスを、Human centricに考えていくことが、非常に重要だと思います。



Text by Tomonari Cotani       Photo : Koutarou Washizaki

Movie :
Director / Animation:荒牧 康治
Illustrator:Macciu
Assistant Designer:塚川 功祐
Sound Design:PARKGOLF
Sound Efect:杉本佳一
Sound Produce:瀧澤真之介(SPLUCK)
Produced by Moph inc.

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