7月で38歳。第一線で活躍するストリートボーラーとしては、おそらく最年長だろう。しかしK-TAの放つオーラは、決してくすまない。無駄のない洗練された肉体。まるで早送りの動画を見ているかのような鋭いクロスオーバー。チームメートや観客を勇気づけるゴールへのアタック、何が何でも得点を決めるという強い意志――。

今年4月で12周年を迎えたストリートバスケリーグ「SOMECITY(サムシティ)」の発起人にしてオーガナイザーは、リーグの運営をこなしながら今もコートに立つ。2011年からは3x3に参入し、日本代表や数々の国際大会を経験。39歳で迎える東京オリンピックの日本代表入りも、当然視野に入れている。

ストリートと3x3。2つのカテゴリーでトップボーラーを務めるK-TAは、どのようにバスケットボールに触れ、誰と出会い、何を考えて現在に至ったのだろう。その答えを知りたくて、12年目の開幕戦を控えるクラブチッタに足を運んだ。「ご自身の半生を振り返ってほしい」。そう伝えるとK-TAは「けっこう長くなりますよ」と目じりにしわを寄せて笑い、語り始めた――。

相手を見返し、打ち負かす。K-TAがアメリカで育んだバスケの原点

K-TAのバスケットボールにおける原点はアメリカにある。小学5年生の時、父親の仕事の都合で移り住んだアメリカで、初めてバスケットボールをプレーしたからだ。きっかけは、兄の友人。日本にいたころにミニバスケットボールをやっていた彼の手ほどきで、近所にある公園のリングでボールを弾ませていた。

一家族が引っ越したオハイオ州のコロンバスという町には、多くの日本人が住んでおり、友だちはみな現地の学校に通い、土曜日に日本の授業の補修を受けるというスタイルをとっていた。K-TAも同じ生活を始めたが、最初は当然言葉が通じず、現地の子どもたちとも距離があった。それを縮めたのがバスケットボールだった。

「休み時間にみんなでバスケをやるんです。自分もやりたいと思って見ていたら誘ってもらって喜んだんですが、やってみたら下手すぎて『もういいや』って外されました(笑)。そのあとはなかなか仲間に入れてもらえなくて悔しかったですね。親に頼んで家の前にリングを設置してもらって、毎日毎日練習。そのうちにまた混ぜてもらえるようになって、いいプレーをしたときに『お前、やるじゃん』っていう空気になったんです。うれしかったですね」

翌年移り住んだミズーリ州セントルイスでも、彼の負けず嫌いな性格が大いに活かされた。近隣にあるコミュニティセンターでは、高校生や大人が連日ピックアップゲームを楽しんでいた。当時K-TAは中学生。「何としてでもここに混ざって、大人を負かしてやりたい!」という思いに突き動かされるように猛練習を重ね、少しずつこれを達成するようになる。高校2年生のときには100人以上のライバルを出し抜き、学校を代表する15人に選出されるまでになっていた(※1)。

自分よりも高い位置にいる者に並び、それを跳び越すために必死に努力を重ねる。「それが僕のバスケの原点になっています」とK-TAは言う。

K-TAは高校2年の夏に日本に戻ってきた。アメリカで生活した期間は5~6年と長くはないが、多感かつ柔軟な10代にめいっぱい吸い込んだ“バスケットボールの国の空気”は、SOMECITYの活動にしっかりと息づいている。

「アメリカでは、ストリートコートに行けば必ず誰かがいるし、2人いれば1対1、3人いたら21(※2)、4人なら2対2が自然に始まる。バスケの“遊び方”をわかっている、遊びとして楽しむ術を知っているという感じですかね。日本にはバスケで遊ぶ環境もなければ、遊びととらえる土壌もない。それが部活を引退した後に多くの人が競技から離れる一因にもなっていると思うんです。だからこそSOMECITYは『バスケットボールを究極に遊ぶ』というキャッチフレーズを掲げて、これを実現するために、いろんなことに挑戦しているんです」

※1)アメリカの高校には部活という概念がなく、秋はフットボール、冬はバスケットボール、春は野球といったように季節ごとにさまざまな競技に取り組めるシステムになっている。校内選考を勝ち抜いた選手たちが学校の代表として、他校と対戦する。

※2)トゥウェンティワン。ボールを持った選手以外の2人がディフェンスとなり、オフェンスは21点先取を狙う。参加人数が4人、5人と増えていっても、オフェンスが1人なのは変わらない。「ニューヨークのボーラーがハンドリングがいいのは、この21で鍛えられているからとも言われています」(K-TA)。

強豪大学で味わったどん底。それを救ったのもやはりバスケだった

K-TAいわく、アメリカのボーラーたちは、総じて自信家なのだという。上手かろうが下手だろうが、とにかく「自分が一番上手い」という根拠のない自信に満ちあふれている。

K-TAも当たり前のように、そのマインドで日本に帰ってきた。しかし、それは木っ端みじんに打ち砕かれた。帰国後1年と少し。一般受験で入学した明治大学のバスケットボール部に入部した春だった。

大学バスケの名門として知られる明治大には、全国大会で活躍した選手たちが集まっていた。強豪校で戦術や基礎技術を叩き込まれた彼らに対し、K-TAは初めて気後れした。

「そもそもバスケットボールをきちんと習ったこともなかったし、『スクリーンって何?』っていうレベルです。『お前らなんてなんだ、俺はアメリカ帰りだ』くらいの感じで入って、ポキっと鼻をへし折られたという(笑)。やるからにはがんばろうと思って入ったものの全然歯が立たなかったし、練習の頭数にも入れてもらえなかった。最後のチャンスだと思った2年生の新人戦でもほとんど出場時間をもらえなかったので、『これは無理だ』と退部しました」

大学にほとんど顔を出さず、週5でバイトに明け暮れた。あれだけ毎日打ち込んでいたバスケットボールも、週に1度やれればいいくらいのものになった。さらに、時代は就職氷河期。惰性で受けた就職試験はことごとく不合格…。大学の卒業見込みが立ち、スポーツトレーナーの専門学校への進学が決まってはいたものの、K-TAは絵に描いたようなどん底の中で、悶々とした日々を過ごしていた。

それを救ったのは、やはりバスケットボールだった。大学を卒業する直前の春休み、友人の誘いから偶然繋がった縁で日本初のストリートバスケクルー「FAR EAST BALLERS」に加入。後に5人制のプロ選手として活躍するような選手たちと寝食をともにするようにプレーしているうちに、日本初のストリートバスケリーグ「LEGEND」がスタートした。専門学校卒業後は、日中は弁当配達のアルバイトにいそしみ、終業後はウエイトトレーニング、夜は練習という日々を送っていた。

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K-TA(鈴木 慶太)
1981年生まれ。神奈川県出身。180cm 82kg。F'SQUAD所属。3x3 EXE PREMIER TOKYO DIME所属。幼少期に渡米し、ストリートバスケに親しむ。帰国後は明治大学バスケットボール部に入部し、2年生までプレー。SOMECITY立ち上げメンバーの一人として創設期から活躍。第2回FIBA 3x3男子世界選手権大会 3x3男子日本代表。

TEXT:Miho Aoki

PHOTO:Tetsuya Kogure