真面目で何が悪い? 不器用で何が悪い? 無粋で何が悪い?

ただひたすらに、まっすぐバスケットボールに向き合う姿勢こそが何よりも尊く、格好良い。

その精神を地で行く、男子バスケットボール日本代表の河村勇輝選手(横浜ビー・コルセアーズ)にインタビューを行いました。

21歳という若さながら、2023年に開催されるバスケットボール最高峰イベントを目指す日本代表に欠かせない存在になりつつある河村選手。今回の記事では、そんな河村選手の中学校時代にフォーカスし、当時のかけがえのない日々を振り返ってもらいました。

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日本を席巻するバスケットボール選手となった、普通の少年

190cmを超えるような長身選手がドリブルでボールを運び、3ポイントシュートを打つのが当たり前の現代男子バスケットボール。その中にあって、身長172cm、体重68kgという小柄な21歳が、これほどの輝きを放つと一体誰が予想しただろうか。

河村勇輝。Bリーグ横浜ビー・コルセアーズの若きリーダーであり、バスケットボール男子日本代表の期待の新星だ。
コートを一瞬で切り裂くスピード。あっと驚くようなパス。勝負強い3ポイントシュート。自分より大きな相手を翻弄するディフェンス。コートで発揮されるすべてのプレーに有無を言わさぬ気迫があふれ、目を離せなくなる。

福岡第一高等学校時代に、冬の全国大会二連覇、高校三大大会三冠の主役として脚光を浴びると、大学進学前に特別指定選手として加わったプロバスケットボールチームでは、既存のプロ選手たちが舌を巻くプレーを披露。河村の名前はバスケットボール界を飛び越え、世間にまで広まった。

そして今年の春、東海大学2年次の課程を終えた河村は大学を中退し、日本のプロバスケットボール界ではまだ珍しい飛び級選手となった。23年以降開催予定の世界大会を見据えた河村の選択は的中。今年2月に代表候補に初選出されたかと思ったら、またたく間にチームに欠かせない選手になりつつある。

さて、ここまで読んだ君は、今、何を思うだろう。「一握りの天才の話」、「自分には関係ない」、そんなことを考えていたとしたら、声を大にして「ノー」と言いたい。

現在の河村が、稀有な力を備えたアスリートであることは疑いようのない事実だ。しかし、かつての河村がそうだったかというと、おそらくそうではない。なぜなら高校に入学するまでの河村は、メディアや強豪高校の監督からノーマークで、地元の進学校から名門大学に進むことを目標としていた、全国のどこにでもいるような少年だったからだ。

自宅のリングで1000本のシュートを打ち込んだ小学生時代

河村選手

瀬戸内海に面する港町・山口県柳井市出身。両親と2人の姉に可愛がられて育った河村は、小学2年生のときにミニバスケットボールチームに入団した。「とにかく落ち着きがない子供でした」とは河村の談。幼少期は広島東洋カープを応援する野球少年だったが、常に動き回れる競技特性が合っていると感じ、バスケットボールに転向した。

2〜3年生のころは、コートでプレーするよりも基礎練習に明け暮れていた記憶が強い。体育館のはしっこでボール回しなどの退屈な練習に取り組みながら、「早く試合をやりたいな」とコートを駆ける上級生たちを見つめていた。

4年生になり、上級生チームの一員として実戦を多く経験するようになると、河村は一気にバスケットボールにのめりこんだ。父が作ってくれた自宅のゴールで自主練習に打ち込み、小学6年生のときは自らに1日1000本のシューティングを課した。チームは16年ぶりに全国大会に出場。河村はシューティングで磨いたシュート力を生かして多くの得点を稼ぎ、チームをブロック優勝に導いた。(※1)

(※1)当時の大会は、出場チームを4つのブロックに分けてリーグ戦、トーナメント戦を行い、ブロックごとに優勝チームを決める方式だった。

冬の全国大会で突きつけられた現実

2014年の春、河村は柳井市立柳井中学校に進学した。ミニバスで誰もが挙げられるわけではない結果を残した河村少年は、新たな舞台でどのようなマイルストーンを設定したのか。「今度は日本一」となるのが自然だし、何なら「将来はNBA選手」と夢想したっていい。ところが河村はそうは考えなかった。

「部活動で日本一になることでなく、バスケと勉強を両立することが目標でした。姉たちが通う地元の進学校に入って、教育系の国立大学に進学して、体育の先生になりたいと思っていたんです」

堅実な将来像を描くようになった、ひとつのきっかけがある。小学5年生のとき、父に連れられて広島まで観戦に行った冬の全国大会。小さい頃から映像で繰り返し見てきた世界を目前にした河村は、興奮より先に、シビアな現実を突きつけられた気分になったと言う。

「高校バスケって、体格の良さや身長が有利になるんだなって、改めて感じました。もちろんシンプルに『すごいな』『楽しそうだな』とも思ったんですけど、僕は当時から身長が小さかったので、父と『みんな大きいね』と話しながら、気持ち的に『うーん』ってなったところがありました」

この大会で上位に進出したチームにも、もちろん小柄な選手はいた。しかし河村の目には、勝敗を左右しているのはあくまで高身長な選手たちというように映った。また、河村が憧れていたプロの選手たちも、170cm台の小兵ながら素晴らしいパフォーマンスを発揮していたが、当時の河村は彼らを「自分とは違う特別な存在」ととらえていたのかもしれない。

身長が低く、平凡な自分に、バスケットボール選手としての未来はない――。河村は幼いながらにそう考え、現実的な目標に集中するようになった。

中学ナンバーワン選手との対戦で感じた可能性

河村選手

河村が入学したころの柳井中バスケ部は、県大会で1〜2回勝てるくらいの実力のチームだった。父は同中の教員で、バスケ部の顧問。学校生活も部活も気が抜けない環境で、河村は1年生のころからスタメンとして試合に出場しつつ、週に3回学習塾に通い、学校のテストでは200人程度の同級生の中で1ケタ台の順位をキープしていた。塾がある日の就寝時間は23時ごろになり、翌日は7時前から始まる朝練に参加しなければいけない。「ギリギリまで寝ようと思ってたんですけど、親に早めに起こされて……。めちゃくちゃつらかったです」と苦笑いで振り返った。

中学2年生の夏には県大会の決勝まで勝ち上がり、自身初の中国大会に出場。そして河村はこの大会で、後の人生を変える経験をした。

「予選リーグの初戦で、岡山の玉島北中というチームに、みじめなくらいボコボコにされました。試合の序盤から1本シュートを決めるだけで大変で、後半は相手がほぼ控えメンバーだったのに40点差くらいで負けました」

倉敷市立玉島北中学校は、春の全国大会で優勝に輝いた岡山県選抜チームの主力がそろい、中国大会後に行われた全国中学校バスケットボール大会(全中)でも準優勝に輝いた。「全中ではエースのコンディションが悪くて準優勝だったけど、あのときの玉島北は全国的に見てもレベルが違いました」と河村は力説する。

河村はこの試合、中学ナンバー1プレーヤーと称されていた選手とマッチアップし、コテンパンにやっつけられた。「全国トップレベルは次元が違う」。そう思ったが、全国屈指の選手の力を体感したことで、希望も見出した。

「試合トータルで見れば自分は何もできなかったんですけど、ディフェンスでちょっとボールをはじいたり、個人で打開できる時間もありました。もっとがんばれば、彼と同じくらいとまでは言わなくても、全国で通用するような選手になれるんじゃないかと思ったんです」

大会後、新しい代のキャプテンに就任した河村は、チームメイトたちと「全国ベスト16」という目標を設定した。「地元の高校から国立大学に行く」という河村自身の人生目標は継続。しかし「最後の1年で行けるところまで行ってみたい」という思いが、たしかに芽生えていた。

チームをひとつにするために繰り返した対話

河村選手

勉強をがんばりたい人。学校生活を謳歌したい人。部活動に本気で取り組みたい人。公立の中学校には、いろいろな趣向を持った生徒たちが集う。「全国ベスト16」という高い目標を達成するために河村が力を注いだのは、部員たちのベクトルを統一することだった。

「中学生って思春期だし、学校生活や友達関係とか難しい時期じゃないですか。バスケ部もバスケを本気でやりたいっていう人もいれば、部活だから楽しみたいっていう人もいて、ギャップを感じることもあったんです。2年生のときに玉島北と戦ったとき、全国に出るチームは、全員が本気で全国を目指してまとまっているんだと感じました。うちは小さいチームだったし、まずはそこをクリアしないとダメだと思ったので、自分が起点となってみんなを活気づけて、『全国を目指すんだ』という意識を植え付けようとしました」

河村は、実に大人びたやり方で仲間たちの意識を変えた。練習に力の入っていない部員に檄を飛ばすのではなく、対話の中でなぜ彼が部活に集中していないのかを聞き、その解決策をともに探りながら、部活へモチベーションを向けさせたのだ。

「やらされるバスケと自らからやるバスケが全然違うということは、自分もよくわかっているので、『ちゃんとやれよ』って怒るのは違うよなと。適当にやっている原因が他の部員との人間関係だと分かったら、それを解消するために話し合いの場を作ったりもしました。部員の気持ちをバスケに引き寄せるために、練習中だけでなく部活の前後の時間も使いながら、うまく言葉を選びながら、常に声をかけ続けていたと思います」

そして河村と仲間たちの奮闘は実った。柳井中学校は県大会、中国大会を突破して全中出場を決め、予選リーグを勝ち抜き、目標としていた全国ベスト16進出を果たした。

ラストゲームに残した後悔と直面した重大な岐路

河村選手

決勝トーナメント1回戦で大敗を喫し、柳井中学校の挑戦は終わった。次なる戦いは、河村が中学入学時からずっとフォーカスしてきた高校受験。これに向けて素早く気持ちを切り替えようとした河村は、心の奥底に新しい願いが生まれていることに気づいた。

「決勝トーナメントで負けた試合、エースとして不甲斐ないプレーをしてしまいました。高校に入ったら、大学受験に向けた準備を優先しようと考えていたので、全中は自分にとって本気で上を目指す最後の大会。それなのに心残りが大きかったからなのか、『高校でこそ日本一を目指したい』って思う自分もいて、モヤモヤしていたと言いますか」

夏休みが明けたある日、思いもかけないことが起きた。父と二人で食事に出かけた帰り道、河村は父から「ちょっと話があるんだけど」と切り出された。そして、続いた言葉に驚いた。

「福岡第一から『うちに来ないか』と誘いが来てるよ」

福岡第一高等学校はこれまでに何度も日本一になっている全国屈指の強豪校で、河村の憧れていた選手の出身校でもある。全中決勝トーナメントの試合を同校の井手口孝監督が見ていることには気づいていたが、まさか自分が誘われるとは考えもしなかった。

願ってもない誘いに二つ返事で「行く」と言ったのかと思いきや、河村は「考えてみる」と言葉を返したという。

河村は当時の心境を説明する。

「もちろんレベルが高いところでやってみたいという思いはあったんですけど……なんていうんでしょう。やっぱり地元の高校に行くのが現実的だと思っていたし、普通の人生を歩むことが親孝行だと思っていたので、福岡第一に行くのは自分勝手なんじゃないかと思ったんです」

両親は「勇輝の考えを尊重する」と言ってくれた。つまり、答えは自分自身で出すしかないのだ。

地元の高校に進む普通の道か、遠方の高校でバスケットボールに打ち込む普通じゃない道か――。この決断が間違いなく今後の自分の人生を左右すると直感していた河村は、長らく一人で悩んだ。井手口監督が「これはもう来ないな」と思い始めたくらい長かったが、12月になるかならないかというタイミングで決断した。

「両親はもしかしたら、地元の進学校に進んでほしいと思っていたかもしれません。でも、もっとバスケをがんばりたい。バスケで日本一をとってみたいという気持ちが勝りました」

河村の答えを聞いた両親はこう言った。

「勇輝が出した結論が一番だし、何より、勇輝の人生は勇輝自身のものだ。勇輝の出した決断をサポートするよ」

重ねた努力を、名将はしっかり見ていた

河村の話を聞いた後、井手口監督に話を聞く機会を得た。実は、井手口監督が全中で熱視線を送っていたのは河村でなく、河村がマッチアップしていた対戦相手のエースと、隣のコートでプレーしていた選手だったという。「知り合いから『いい選手がいる』とは聞いてはいたけど、河村のプレーは正直印象に残っていないんです」。井手口監督はそう笑う。

では、井手口監督はなぜ河村にオファーを出したのか。井手口監督は「キャプテンとしてよくチームをまとめていたし、自分だけでなく仲間のことを考えながらプレーしていたから」と言った。河村が1年間磨いてきたリーダーシップは、仲間たちを変え、さらには試合を”ながら見”していた名将のセンサーに引っかかるほどの力を持っていたのだ。

「他の学校からは特にお誘いはなかったので、井手口先生の声がなければ、心残りがありながらも勉強中心の人生を送っていたと思います。本当にありがたいなという気持ちです」

河村が言う通り、井手口監督があの場にいなかったら、スター選手として活躍する現在の河村はいなかっただろう。ただ、細い、薄氷のような未来を手繰り寄せたのはまぎれもなく、全力で部活に打ち込み、努力を重ねた河村自身だ。

世界への挑戦…道は続く

河村選手

普通に固執していた中学生はその後、高校生Bリーガー、大学中退、日本代表最年少メンバーと、普通とはかけ離れた世界線を生きている。河村は「かつての自分からしたら信じられない思い」と言いつつも、どんなに活躍しても、どんなに脚光を浴びても、地に足のついた姿勢を崩さない。

「両親やさまざまな人たちの助けがなかったら、今の僕はいないし、今もそういった方々が、自分をぶれないように支えてくれていると感じます。それにバスケって、どれだけ活躍してもどこかに必ずミスがある競技だと思うんです。その日に起こったミスに向き合って、解消して、次の試合で成功させるために努力する。そういった考え方で僕はプレーしています」

日本代表メンバーに名を連ねて以降、河村のパフォーマンスはこれまで以上に凄みを増している。12月のBリーグの試合では、3試合連続30得点オーバーというとんでもないスタッツも叩き出した。

井手口監督は、向かうところ敵なし状態だった高校3年時の河村を引き合いに出し、「あのころ持て余していた本気を、今、すべての試合にぶつけているように感じる」と話し、「これから先に行くには、さらに新しい力を蓄えなければならないだろう」と今後の課題についても言及した。

河村自身も、おそらくそれを理解している。今後河村が挑んでいくのは、体格、身体能力、技術、知性、すべてが格上の世界のスーパースターたち。河村はこれまでも、いくつもの課題を地道にクリアしてきたが、172cmの日本人が彼らに立ち向かうためには、常識を打ち破るような何かを備えなければならない。

「短期目標は、ビーコル(横浜ビー・コルセアーズ)のチャンピオンシップ(プレーオフ)出場に向けて、チームを勝利に導くこと。少し先の目標は、世界へ挑戦するメンバーに入ることと、その先に続く、世界での活躍」と話す河村は、今後、どんな進化を遂げていくのだろうか。

本気で努力するから、部活は楽しい

河村選手

最後に、若きスターが、自分に続く可能性を秘めたすべての”後輩たち”に送ったエールを紹介して、記事を締めくくろう。

「部活には、本気でやるからこそ感じられる楽しさがあります。僕も、中学校の時は、本気になることを恥ずかしいと思う時期がありましたが、今振り返ってみると、やっぱり思い出に残っているのは本気でやってきた時期なんです。部活に取り組める時間は、人生全体で考えたらわずかな時間。一緒に過ごす仲間たちを大切にしながら、本気で部活に打ち込んでほしいです」

かっこ悪くても、悔しくても、情けなくても、君の価値は決して傷つかない。ガムシャラに目標を追いかけた過程が自らを輝かせてくれるのだと、河村は教えてくれた。



河村 勇輝
2001年生まれ。山口県出身。172cm 68kg。横浜ビー・コルセアーズ所属。2020年に東海大学へ進み、インカレ優勝に貢献。「Forbes 30 UNDER 30 JAPAN 2020」に選出されるなど、今後の日本バスケットボール界をリードする選手としてさらなる活躍が期待されている。

Photo:Tetsuya Fujimaki
Text:Miho Aoki