9.98を記録したスペシャルシューズ

2017年9月9日、日本学生陸上対校選手権男子100メートル決勝。当時21歳の若きスプリンターが前人未到の偉業を達成した。日本人初となる夢の9秒台、その歴史的瞬間の主役となったのは東洋大学4年生の桐生祥秀選手だ。

桐生選手

桐生選手が伸びのある走りで100mを駆け抜けると、試合会場である福井県営陸上競技場の電光掲示板に表示された数字は「9.99」。程なくして「9.98」と表示が切り替わると、スタンドからは割れんばかりの大歓声が上がった。日本新記録達成の吉報に陸上ファン以外の人々も鳥肌が立った。


今もっとも注目を集めているアスリートである桐生選手。スプリンターの相棒ともいえる彼のスパイクはASICSによるスペシャルシューズだ。アシックススポーツ工学研究所で足の計測や走行分析実験などで得た知見と桐生選手本人の意見を取り入れた特別モデルについて、桐生選手は自らその特徴を説明してくれた。


「足の裏全体で地面を蹴られるということと軽さにこだわりました。片足の重さが120gしかないですし、足を締め付けないので裸足で走っているような感覚がありますね。白地にゴールドのデザインで9.98を記録できたのはうれしかった。僕にとってASICSは“ザ・スポーツウエア”。スポーツウエアの代表格ですね」

桐生選手

筋力よりもバランスよく怪我をしない体作りを

誰よりも速く駆け抜けることを目指すスプリンターとしてシューズ選びが重要であることは言うまでもないが、それに見合ったフィジカルを追求しなければならない。桐生選手が思う理想のフィジカル、それは「怪我をしない体作り」だという。


「速さを追求するために筋力を増やすことも大事ですけど、一番は身体のバランスを重視して怪我をしない身体作りを意識しながらトレーニングに取り組んでいます。もともと僕は中学の頃から足の怪我が多いんですね。怪我をしてしまうと、良いタイムを出せるかどうか以前に試合に出られない。ただでさえ陸上競技は秋と冬には試合がないので、怪我をすると元も子もないというか。怪我をして自分には試合がないという状況を分かったうえで陸上をやるのは相当辛いので、そのためにも必要以上に追い込まない体作りをするようになりましたね。これは誰かを参考にしたというわけではなく、あくまで僕の経験からの考えです」

桐生選手

日本人初の記録を高校生の時から期待されながら、怪我の影響もあって足踏みを続けてしまった時期もある。それだけに日本新記録は自身にとって待望だった。しかし、「やっと世界のスタートラインに立てた」と話すように、海外には自分よりも速いスプリンターたちが立ちはだかっているのは事実。ファンとしては桐生選手が彼らより先にゴールラインを駆け抜ける姿を早くこの目にしたいと思うものの、本人はいたってマイペースだ。


「日本人は筋力を付けようとしても思ったようにはできませんし、陸上は誰かと接触があるようなスポーツではないので、ひたすら鍛え上げればいいわけではないんです。鍛えすぎた結果、失敗してしまった日本人選手もいるので、そういう意味でも、自分の体に合ったトレーニングを続けることが必要だと考えています。もしも怪我をしてしまっても、すぐに練習に復帰しようと焦らないことを心がけています。心が整わない状態で練習しても決して良いトレーニングにはなりませんから、また記録を出したい、そのために練習したいという気持ちが高まってきたら練習する、という感じ。そのスタンスはこの先も変わらないでしょうね」

自分の限界を考えずに記録を伸ばしていく

桐生選手をはじめ、ここ近年の日本人スプリンターは好記録の持ち主が台頭してきた。陸上ファンならずとも、確実に日本人スプリンターのレベルが上がってきていると感じるが、自身を含めた今の状況を次のように捉えている。


「素晴らしい選手がたくさん登場して、日本人スプリンターの中でも0.01秒の差を競う世界になってきました。やっぱり大きかったのはリオオリンピックですね。男子4×100mリレーで銀メダルを獲ってから、短距離走でも世界で日本人がメダルを獲れるというムードに変わってきました。さらに翌年の世界陸上ロンドンでは銅メダルを獲れたことで、さらに認識が高まったと感じています。周囲の環境が変化するにつれて、僕らももっと頑張ろうという気持ちになれました」

桐生選手

実際に陸上競技を応援するファンが増え、試合会場に足を運ぶ人々も多くなった。トラックフィールドからスタンドを見渡しても、明らかに観客が増えていると実感し、自分自身への注目度も今までと違うということも伝わっている。


「選手である僕らサイドから“会場に足を運んでください”と呼びかけるのはおこがましいというか、僕らは良い記録を出していって、そのたびにお客さんが増えてくれるという状況が理想的ですね。それでも今は陸上の試合を見に行くことに対してハードルがあると感じているので、いつかは会場の近くに来たからふらっと陸上を見に行くという人が増えてくれるといいですね」


そんな自分自身に向けられる関心と陸上ファンが増え続けている今、桐生選手がスプリント競技に魅了される理由を聞いてみた。


「自分の成長がタイムという形に表れるから、もっと上を目指したくなりますね。練習が合わなかったらタイムは遅くなりますし、良い練習ができればタイムが上がる。それは他のスポーツにはあまりないことでしょうし、100m走は一番わかりやすい競技だと思うんです。一瞬の勝負だから、テレビでも会場でも見やすい競技なのかなと」


早くも最速記録の更新が期待される桐生選手。今後は2019年に世界陸上、そして2020年には東京オリンピックの開催とビッグイベントが控えているが、本人は極めて冷静だ。まずは目の前のことを着実にこなしながら、来たるべき時を迎えようとしている。


「先のことは正直まだわからない部分が多いんですよね。今から2,3年後のことは想像できないので、毎年その1年をしっかりやっていき、東京オリンピックを迎えたいと思います。目標はもちろん100mのファイナリストですけど、僕は2020年を迎えても24歳ですし、東京オリンピックが終わっても陸上を辞めるつもりはありません。つねにこれから先もタイムを縮められると考えていく方が楽しいじゃないですか。自分の限界を考えずに記録を伸ばすことをこだわっていきます」

桐生選手

桐生祥秀(きりゅうよしひで)

1995年生まれ、東洋大学陸上競技部所属。2016年、リオデジャネイロオリンピックにて4×100mリレーのメンバーとして銀メダリストに輝く。2017年の世界陸上ロンドンでは同じく4×100mリレーにて銅メダルを獲得。そして同年9月9日、日本学生陸上対校選手権男子100メートル決勝において、日本人初となる9秒98をマークし、日本記録を更新したことは記憶に新しい。



TEXT:Shota Kato  PHOTO:Naoki Inoue